今昔物語

1 今は昔、塩釜市内にライバルチームの親軍団がいた。

「みんな仲良くしなさい」「チームプレーが大事」と言っているわりには、いつも敵対心をむき出しにし、子供の試合を応援している親たち。或る日、それを見かねた小幡監督が市内及び県内のチームを集めて運動会を開催した。各チームから持ち寄った賞品で盛り沢山の運動会は、わきあいあいと進行するはずだった……が。「りんごの皮むきが半分でゴールした人がいる!」「パンくい競争のパンを食べのこしているー!」など、火に油を注ぐ結果になってしまった。「やれやれ困ったもんだ」と思い悩んだあげく「他人のふり見て我がふり直せ」と塩釜サッカー少年団(塩釜FCの前身)は親の会を廃止。以後、指導者不足、来たる未来の少子化、グラウンド確保の困難などの理由で市内のチームをひとつにし塩釜FCになった後もそれは続いている。

2 今は昔、仲良し四人組がいた。

サッカーが大好きな事は言うまでもないが、現在の塩釜FCの礎といっても過言ではない。それまでは、少年団を卒団すると、各中学校の部活に所属していたが、彼らは違った。光信、京ちゃん、イワッチョ、勉チャンの四人は、新しい時代を築こうとジュニアユースの第一期生となる。当初、大会には他チームからの助っ人をたのみ参加していたが、少しずつメンバーが増えていった。学校でサッカーをしないと内申書が悪く書かれるなどのうわさにも動じることなく大きな功績を残した。今日、全国大会への常連チームとして有名になった基礎は彼らが築いたのである。光信はマリノスに所属した後、今は故郷でサッカーを楽しんでいる。他の三人も子供達のために、社団法人の会員になって援助をしてくれている。

3 今は昔、あだ名を「がま」という小学生がいた。

彼には今だかつて破られていない記録がある。それは、今から三十数年前、静岡県清水市の遠征先の旅館での出来事である。朝食のおかずが足りず、納豆を買って食卓にのせたところ、何と、どんぶり飯八杯をみごとに食べたのだ。小学生の遠征食事記録で、今だかつて彼を破った者はいない。食が細い最近の子供たちとは比べものにならないパワーを持っていたことは言うまでもない。尚、彼の名誉の為に一言、決して肥満体系ではなく、ごく普通の少年だったことを付け加えておく、仙台育英学園高校で全国大会に出場したことも……。

4 今は昔、右翼の人たちに助けられる事件があった。

小幡家は当時喫茶店をしており、困り事相談所と化していて、勉強、家出、けんか、いじめなどありとあらゆる相談事で訪れる人達がたえなかった。先生も警察官もこわくない人種が多い時代に、某中学校のサッカー部の母親がかけこんできた。「家の中で六人でシンナーを吸っていて、手が付けられない。何とかして下さい!」そこに居あわせたのが、コーヒーを飲んでいたOBと右翼の人。とるものもとりあえず、六人のもとへ、家の前には「街宣車」戦闘服を着た右翼の人と車を見て、真っ青の六人が、ただ呆然……。「シンナーなんかやめろ、身体ががたがたになるぞー」「やめないと山にうめるぞー」後日、小幡宅に現れた六人、「おっかなかった、小便チビッタ」と二度としないことを誓いあったのだった。今ではパパになり、「勉強しなさい」などと子供に言っているらしい。

5 今は昔、試合中に珍事件がおきた。

十五年位前の夏休みの出来事だ。その頃の塩釜FCは、読売クラブの子供達と練習試合をし、交流をするのが夏休みの恒例行事で、この時も試合の真っ最中。塩釜FCメンバーチェンジ!「タケオちゃん、ウィングしろ!」塩釜FCに入りたてのタケオちゃん。運動能力は高いものの、サッカーの試合は初めて。張り切ってグラウンドに入っていったタケオちゃん。一生懸命片目を開けたり閉じたり。「何してんだ、タケオー!」「俺ウィンクしているよ。だって小幡さんウィンクしろって言ったでしょ」これには皆大笑い。でも本人は真剣そのもの。「説明しないで急にやらせた俺が悪い」と監督。「好きなように思いっきりやってみろ!」中学三年までサッカーに喧嘩に明け暮れたタケオちゃん。監督が疲労で倒れた時も、ジュースをもって真っ先に駆けつけてくれたタケオちゃん。暴れまくって手に負えない時代もあったけれど、思いやりや優しさを表現するのがへたなだけ。今では中々お目に掛かれない人種だけれど、なぜか憎めないし、何かと心配。昔の暴れん坊軍団も今は、社会人チームをつくり団結している。皆、時期がくれば落ち着くものだよ。

6 今は昔、おねしょ隠し事件があった。

年に一度は必ず遠征を行い、集団生活の大切さを学んでいるが、小学生を連れていくと必ずと言って良いほど直面するのが「おねしょ」。遠征先の宿についてはじめにすることは、全員に目をつぶらせ、監督はこう聞く。「おねしょが心配な人は手を挙げて!」でもなかなか本音を出して手を挙げる事が出来ない小学生がほとんど。こんな時監督は、「ひとーり、ふたーり、さんにーん」挙げてもいない手を数え出す。すると安心して一人、二人と手を挙げ出す。「ようし、わかった。今、手を挙げた人に関してはおねしょしても何も言わないし、夜中に起こしてやる。でも、手を挙げなかった人は、自分で責任をとること」とたんに、また一人、二人と手を挙げ出す。私は手を挙げた子供達を把握し、夜中に起こす役目に徹する。それでも失敗する子供が出てくる。こんな時、監督は、何人かの子供のパンツに夜中の内に薄めたウーロン茶をかける。翌朝、目が覚めた子供達は大騒ぎ。おねしょをしたのかと錯覚する子供、本当にやってしまったのかと悩む子供。ここで監督の一言「いたずらしてごめーん」本当におねしょをした子も皆からはやしたてられることもなくいたずらで事件が終了。おねしょごときでひるむことなく大きく育って欲しいとの指導スタッフの願いをこめて……。

7 今は昔、やっかいな母親がいた。

親の会がないのが塩釜FCだが、ちょっとかわったお母さんがいた。超過保護なお母さんは、小学校一年生の息子を連れて練習に現れた。当時大学生だったFコーチが指導に当たっていたが毎日、タクシーで現れ、練習が終了するまでじーっと練習を見学、そして練習が終るとタクシーで帰っていくのが日課だった。練習がやりづらいと知った私は、遠征に参加してもらうことをきっかけにそのお母さんをスタッフ側に巻き込んだ。と言っても指導スタッフに入ってもらったわけではないが、側面からみんなを見守って欲しいとの理由で、我が子だけを見る視点を全体を見る視点に変えていった。以来約二十年、子供が卒業してからも家族ぐるみでチームを支えてくれている。今でも試合の応援に駆けつけてくれたり、以前のやっかいさは全然なし。現在のクラブ員のお母さんたちも自分の子供が卒業しても応援に来てくれると嬉しいのだが……。

8 今は昔、死の渕からの生還を果たしたコーチがいた。

前述で登場したやっかいなお母さんの子供孝行君がその人だ。大学に通いながら塩釜FCのコーチをしていた孝行君は、監督と親交があった仙台の清水内科外科を訪れ体調の不良を訴えた。清水先生は、入院体制をやめようとしていた矢先で入院最後の患者として孝行君を受け入れ検査の結果悪性リンパ腫と診断された。大学病院に転院し治療が開始されたが、余命半年と診断され、家族の動揺ははかりしれないものがあった。清水先生は漢方薬の勉強をされており、抗ガン剤治療に負けない漢方薬を中国を訪れ研究され、孝行君の支えになり一緒に戦ってくださった。孝行君も……。今は結婚し、家族と一緒に明るい家庭を築いて、家業の工務店の跡取りとして仕事に励んでいる。本人が悪性リンパ腫をガンとうたがわなかった事、生きたいという気力、病院で生まれた小さな恋、何よりも漢方薬の大きな力。いろいろな要素が孝行君にあらたな命を吹き込んだのだ。癌とは思えないくらい体重は落ちず、髪の毛は抜けずいつも明るい笑顔をふりまえていた孝行君笑顔も、体重も、今も変わらない。

9 今は昔、サッカー大好きなおばちゃんがいた。

自分の子供がサッカーをやっていた頃は当然の事、卒団してからも塩釜FCのおっかけをし、いろいろな方面から応援してもらっていた。サッカー好きは塩釜FCのおっかけにとどまらず、少年サッカー、中総体、高総体、クラブの大会など、時間さえあれば私と一緒に常にあちこちに姿を表し夢中になって観戦に励んでいた。ルールは勿論の事、戦術面も頭の中に入っていて審判よりジャッジが早い。時には試合に夢中になり、応援席で一緒になって足で蹴り上げる事も度々。ある高校の試合では、審判の判定を不服とし「あんた!何見てんの!」などと大声でクレーム。自分の子供がいないのにすごい。また、他人の子供でも悪さをすれば、頭から「こつん」と、げんこつを落とす。それでもおばちゃんのいうことが正しい上に、愛情がわかるから誰も反発しない。そんなおばちゃん「升井」さんも数年前胃がんで天国に召された。ぽっかりと心に穴があいたようだった。そんなおばちゃん今の時代はいないのかなー。

10 今は昔、孝信というサッカーおたくがいた。

加藤久、鈴木武一と黄金時代を築いたメンバーの一人。塩釜一小、塩釜一中、仙台育英と進み、永大産業に就職、ブラジルにサッカー留学、セルジオ越後氏と共に永大産業で活躍をしていた。永大産業倒産に伴い、悩んだあげく現在のコンサドーレ札幌の前身東芝に移籍、大いに期待されていた矢先、二十歳の若さで練習中に心臓麻痺で死亡、私達をはじめ、仲間のショックは言葉では言い表わせないほどだった。今の時代に生まれていれば間違いなくJリーガー。天国から、FCのみんなや卒業生たちを、見守ってくれているに違いない。とても優しい少年だったから……。

11 今は昔、家出事件が多発している頃があった。

かけこみ寺的存在の小幡宅にとある少年団OBの父兄が相談に……。「息子が女の子と家出して帰ってこない、警察には相談したくないので何とか探して欲しい」OBや近所のアンテナを駆使して、やっと二人の居場所を発見。威勢の良いあやしげな兄さん達の家に軟禁状態。取り戻そうと小幡と友人がもらいさげに出向くが、「そんな奴らはいない!」と門前払い。しかし確かにいるはずと中に踏み込み、やっとのことで取り戻す。本人達はその時点で事の重大さを認識。 他にも家出人捜索は日常茶飯事。出没先や隠れ家探しは、経験者のOBに助っ人をたのみ、力強い応援団に……。何事も経験は大事だが、あとの役に立っているのかなー。とても優しい少年だったから……。

12 今は昔、今になっては珍しい乱闘事件や、校内暴力が多発していた頃があった

ジャスコ屋上乱闘事件や、ヨークベニマル駐車場事件等、学校対抗の戦いが、それもサッカー部対抗戦が繰り広げられていた。結束力のあるメンバーは、決して他に漏らすことはなかったが、必ず、どこからか情報がもれて、これもどういうわけか、小幡宅に連絡が入る。怪我ですんで、ほとんどが大事に至らなかったのが、不幸中の幸い。そんな少年が「親」になって、口にする言葉は「勉強しなさい。」「危ないから自転車でサッカーに行くのはやめなさい」「喧嘩をしてはダメ」喧嘩してもいいじゃない。仲直りのしかたさえわかれば、あとで良い人間関係を保っている喧嘩仲間は沢山いるよ。あの頃少年だったお父さん、お母さん、昔を思い出して!元気が一番だよ。

13 今は昔、おまわりさんの協力者がいた。

ある塩釜FCの卒業生が煙草を吸っているらしいとの情報が入った。これがばれると退学させられるかもしれないとの同級生からの訴えがあり、まず、本人とその仲間を呼んで真実を確かめることになった。まず、いつも登場するのが、リトマス試験紙。煙草を吸っていると青いリトマス紙が赤に変わるとのニセ情報を本人達に何となく流す。そして監督宅に呼んで問い正すことに……。小幡家の真向かいに駅前交番所があり、いつも子供たちの動向に目を向けて協力してくれるおまわりさん達がいたが、その話を小耳に挟んだあるおまわりさん。協力を申し出てくれ説教をしてくれることに……。小幡家の一室に高校生達を待たせ監督から話をされると、すぐに煙草を吸っている事を認めた高校生。リトマス試験紙を出すまでもなかったが、制服のおまわりさんをみて「やばい」という表情はかくせない。自分の手柄のためではなく、生活指導という意味で話を聞かせ、とりあえずは無事解決。警察不祥事が多いこのごろ、昔ながらの近所とのふれあいのある交番のおまわりさんがなつかしいし、高校生が煙草で退学という時代もまた懐かしい。今では喫煙も低年齢化しているとか。

14 今は昔、のんびり屋のキャプテンがいた。

お世辞にもサッカーが上手いとは言えないがどこかにくめなく、頼り甲斐があるわけでもないけれど皆から好かれていた。夢は大きく、ドイツ留学してプロになりたいといつも話をしていてくれた。遠征先で扇風機に指をはさんで爪が割れたり、話し方が「トロ」かったりでいつも機敏な兄と比較されていたが、学業は兄を上回っていた。そんな康次郎ちゃん、誰も予想しない道に進んだ。なんと「よしもと新喜劇」のオーディションを受けたのだ。今は下積みで頑張っていると風の便りに聞いている。本当に自分の進みたかったのはこの道だったんだと後から聞いて知った私達は彼の成功を心待ちにしている。お母さんが苦労して育てた康次郎、略して「ジロチャン」。お母さんや兄・妹のためにも早く一人前になって!サッカーだけが道じゃないと目標を変えたときのジロチャンの意志、そして動き出した力。本当に尊敬する。新たな目標を見つける時がきっと来る。後輩達よ!誰かが見ていてくれるよ。足をしっかり地につけて頑張れよ!ちなみにこのジロチャン。前出ウインク事件のタケオチャンの弟である。

15 今は昔、清水遠征をした時代が数年続いた。

ある遠征の時、台風で新幹線が三島付近で長時間にわたって停車した。めったに出来ない経験だったが車中の子供たちは動揺する事もなく、大はしゃぎ。試合が出来るかどうかの不安があっただろうが……(?)。翌日グラウンドに案内されてびっくり……。小学校の校庭がサッカーの正規のグラウンドになっていた。そして小学校の校庭独特の遊具が校庭のはずれのほうにあり、その上、簡単な観客席まで設置されていて、さすがサッカー王国だと感心した事が思い出される。ところで、その時お世話になった旅館M温泉がとても印象的。まずはボールも十円玉も床におくと転がっていく、部屋は障子戸の出入口。さらに電気を使いすぎたのか、時々ブレーカーがおちる。旅館の方々はとても感じの良い人達だったけれど、子供たちがびっくりすることばかりで、目を白黒。今ではホテルを利用する遠征も増えて、プライバシーが守られているけれど、開けっぴろげなM温泉もなつかしい思い出。

16 今は昔、塩釜FCの小学生が塩釜高校のサッカー部と一緒に読売クラブとの練習試合の為よみうりランドのランド会館に宿泊をした。

いたずら好きな小幡監督、恒例の「ドッキリ」を行うことに……。まず一人の演技者を選んで打ち合わせをし、何かまずい事がバレたので監督に怒られ、ビンタをされたことにする。さらに鼻血が出た設定にして赤ペンで染めたティッシュを鼻につめる。そして大声で「すみません」を連発。それを聞きつけた他のメンバーが聞き耳をたてているところに指名者(何かやっていそうな人)を呼び出す。そして監督の部屋に呼び正座をさせる。「〇〇〇!やっていることはばれているんだから正直にいえ!」すると必ず何か思い出す。「すみません。お風呂の中でおしっこをしてしまいました」など呼び出された人はしゃべり出す。何人か同じような事をし、最後に「ドッキリでした」と本当のことをいう。こんな時にも子供たちの意外な性格や隠された生活態度も知る事が出来、接し方に大いに役立つ。そんな中、塩釜高校のある生徒(塩釜FC出身)にドッキリを仕掛けようと皆で示し合わせ、トイレに入っているところに上からバケツに入れた水をかけることに見張りの高校生のOKのサインで水をかけたところ。「ギャー!」何とこれが人違い。みんな大急ぎで逃げて散らばり「ごめーん」。いたずらされても笑って許してくれるような大きな心があると、楽しく付き合っていけるけど……。最近はいたずらを「いじめ」にとられてしまうこともありとても難しくなってきた。限度と普段の信頼関係が大きなポイント。楽しいいたずら、もっとやってみたーい!

17 今は昔、ダイヤモンドサッカーというテレビ番組があった。

約三十年前、東北ではこの放送はされておらず、王様ペレの妙技を見る事が出来なかった。そのころ小幡監督は、知り合いの電気器具販売店でビデオデッキやカメラが載っているカタログを目にした。すごいものが出来たものだと感心したが、当時五十万円もするものだったので購入をあきらめた……が。セールスの方の熱心なすすめと、世界のサッカーが見られる上に皆の憧れだったペレの素晴らしいプレーが見られることを思い、購入の決心をした。それもダイヤモンドサッカーをテープにとって送ってくれる事を条件に……。しかし、当時オープンリールのビデオテープが一時間もので一万円という価格。生命保険の勧誘のアルバイトをしながらやっとの思いで教本を手に入れた。それでも保険の仕事は中々うまくいかず思いきって二人でダイヤモンドサッカーを放送している今のテレビ東京。かっての東京12チャンネルにアポイントなしで交渉に出かけた。対応に出て来てくれたのが宮城県白石市出身の方で東北でのサッカー普及のために多方面と掛け合ってくれる事を約束してくれた。それからまもなく、宮城県でも夜中にダイヤモンドサッカーが放送され、1970年代のワールドカップや世界のサッカーを目にする事が出来るようになった。今では当たり前に放送されているサッカー番組も当時マイナーのスポーツだった為、放送するには大きな苦労があったに違いない。あの時の担当者の方に今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。

18 今は昔、塩釜FCの小中学生は、塩釜市あげての伝統行事塩竈神社のお祭りに参加していた。

ある祭りで、かつぎ手不足の時があり、白装束を身にまとい、一トンの神輿を十六人でかつぐ中、中学生がかりだされた。いくら大人ぶってもしょせんは中学生の体力。重みに耐えかねてつぶれてしまった。それでも地面に神輿をつけてしまったら、神様を地に下ろしてしまう事を知っていた中学生達は大人の「何やってんだ。バカヤロー」の声にも反発せず、必死に身体を神輿の下に……。宗教を別にし、地域の神様をお守りする姿勢は親から伝えられていた。また、ある時、毎月一日に子供達が神社清掃の奉仕作業をしている姿をテレビの生放送で紹介されることになった。「ズームイン朝」を見入っていたら、予定の放送時間よりずっと短くなってしまった。何事が起きたのかと思ったら、ライフル銃を持った銀行強盗が人質を取ってたてこもると言う事件が発生し、映像が切り替えられ子供達の出番が短くなり、がっかり……。またある年の「みなと祭り」大型台風が塩釜を襲った。我が家も一階が地面から一メートルまで浸水し、大変な騒ぎになっていた時、一人の小学生が現れた。人っ子一人歩いていない道を必死の形相で現れ「今日祭りに出ないの……!?」。当然、祭りは中止になっており、各家庭は台風対策で大変な中の出来事。こんな強風、大雨の中、祭りが出来ないことと皆わかっていると判断し、中止の連絡を入れなかったことを反省しやってきた小学生にお詫びした。S君に責任感がこんなにあったなんてただただ感心……。今はどんな生活を送っているのか……。雨がちょっとでも降ると、「今日、サッカーの練習ありますか?」とよく電話が入る。雨でも雪でも練習をして帰った時代の子供達は、エライ!何も言わないで任せてくれた親もエライ!!

19 今は昔、サッカーのユニフォームがスポーツ用品店では売っていない時代があった。

チームをつくり試合をするとなると、当然ユニフォームが必要。仕方なく、野球のアンダーシャツのようなTシャツに野球の背番号を手縫いで付け、ソックスは厚手のバルキータイプ。現在、若い女の子が履いているルーズソックスの元祖の様なものだった。スパイクは布製のモンブラン。それでもユニフォームを着用した。子供達は本当にうれしそうに喜びを表していた。数少ないそれらは、当然大切に扱い、また買ってもらえた事にも心から感謝していた。もっと考えられない事があった。ゴールポストやネットもなかったのだ。ゴールポストは太い棒の根本をコンクリートで固め、洗濯物の干場の様に、棒の先をU字にくりぬき、物干し竿を横に渡した。ゴールネットは地元の利を生かして、魚網を使用、一対作る予算はなく、片方だけでまにあわせていた。道具なんか揃っていなくても練習は出来るし、良い選手も育つ。加藤久氏もこんな中、育っていった卒業生の一人。むしろ 想像力や忍耐力が自然と養われた時代の子供達は幸せだ。全て自分の力になって役に立つもの……。

20 今は昔、野菜嫌いの小学生がいた。

幼児の頃から知っていた私は、サッカーに入ってきたことをきっかけに食生活の教育係に変身した。合宿や、遠征では隣りに座り、玉ねぎ、キャベツ、人参……と野菜を食べるのを確認するのが常だった。目に一杯涙を溜め、やっとの思いで飲み込む姿を可哀想と思いながら健康面を考え、心を鬼にしていた。ところが、最近分かった新事実があった。我が家に遊びに来た「ボンチャン」(あだ名)の爆弾発言。「あの頃、Riさんの目を盗んで、皿の下にねばしたり、茶碗の底に隠しておいて、皆の姿が見えなくなってからかたずけていたんです」「ナニ———!!」昔よりは大分食べられる様になったボンチャンだけれど、今でもやはり野菜嫌い。中学・高校は地元のスター選手として活躍してきたけれど、今はちょっと太りぎみ。最近パパになり、子供の食生活も考えなければならない立場になり、野菜嫌いが克服出来るか乞う御期待!ちなみに、ボンチャンのボンは、ボンボンのボンでなく、バカボンのボンで〜す。何があっても憎めないキャラクターがこのニックネームになったのかも。今でも野菜嫌いや、小食、偏食の子供達が多い。私は、相変わらず野菜嫌いな子供の隣りに座って食べ終わるのを待っている。こんなことを懲りずに四十年も続けているのだ……。

21 今は昔、塩釜FCのはぐれ軍団がいた。

全国的に有名な仙台の暴走続「神風」という軍団。サッカー選手として意志が強く、いくらか上手だった者は、高校のプレーヤーに、しかしついて行けなかったり、色々な事情で続けられなかった者は、仙台新港をバリバリと音をたてて走り続ける仲間に入っていった。当然警察の御世話になることも度々だったが、月日がたつと必ずそれも卒業し少しずつ落ち着いてくる。ある日、玄関のインターホンを鳴らすものがいて出ていくと、「こんばんは、俺、今日出てきました」と挨拶に現れたH君。もう悪さはしないと誓い家の中に入らず帰っていった。鑑別所から出てすぐに顔を見せに来てくれたのだ。とても嬉しかったし、もう二度とそんな所に行かないでほしいと願った。そんなH君も今ではパパ。子供にもサッカーをさせると遊びに来てくれた日、「パパははちまきに日の丸つけていたけれど、ボクは胸に日の丸をつけるよう頑張れ!」と監督。奥さんがにっこりしながらうなずいていたのがとても印象に残っている。最近、今まで借りていた東北電力のグラウンドがなくなり、借りられなくなる事態になった。色々なところに借りられないかと連絡を取っていたところ、元暴走族軍団のサッカーチームの代表タケオチャンから電話が入り、自分達が借りているナイターグラウンドを貸してくれるという。家庭的な関係や、様々な問題を乗り越え他人の痛みが分かる軍団。困っている時はお互い様と快く開けてくれた。

22 今は昔、悲しい出来事がいくつもあった。

教え子に先立たれる事、それも原因がわからず生命の灯が消えていった事を知らされた時の空しさは、言葉には言い表わせない。これまで交通事故で亡くなった教え子が二人、自殺者が三人、練習中に心臓麻痺で亡くなった者が一人いた。その中の一人、高校卒業後、何年か続けて大晦日になると、それも夜中に電話を掛けてきたTがいた。事故を起こして泣きついて来たり、喧嘩をしてトラブルを起こし、仲裁を頼んで来たりで、面倒ばかり掛けられたが何か憎めないキャラクターだった。貧しい少年時代を過ごし淋しい思いをしてきたのか、小学生の頃は放課後になると、監督の車に乗って(その頃まだ実家にいた監督は家業の精肉店を手伝っていた)配達の手伝いをしていた。将来を期待されていた選手だったが、ある時期からサッカーを離れ、徐々に音信不通になっていった。そして突然訃報を知らされた。自殺という一番つらい知らせだった。子供の頃の様に何もして上げられなかった悔しさと、苦しい時に相談に乗って上げられる環境を作ってやれなかった苛立ち、そして何よりもサッカーを通して鍛えるべき意志の強さや、命の尊さを教えられなかった自分の不甲斐なさにただあ然とするだけだった。他の二人の自殺者にも共通して言える事は、表面は強がって、虚栄心のかたまりにはなっているけれども気持ちのやさしさと心の弱さが幼い頃からあったということだ。これからこんな気持ちを持たない為にも、内面から強くなれる子供達を育てていきたいと思うと共に、悩みを打ち明けてもらえるようお互いの心を近距離に保っていたいと思う。こんな事で泣くのはもうやめにしたい。

23 今は昔、札幌のサッカーチームにホームステイをさせてもらい、「コープ杯」というサッカー大会に参加した時代があった。

初めて飛行機に乗る子供達が多く、興奮する気持ちと、落ちたらどうしようという恐怖と入りまじった複雑な心境で、札幌にたどり着いた時はかなりの疲れがあったようだ。二人一組になり、札幌SSS(スリーエス)というチームの子供達の家庭に御世話になり札幌ビール園でジンギスカン料理をいただいたり、観光に連れていってもらったりで大会に出場する以上に楽しい思い出を沢山頂いた。大会が始まり自分達の中では塩釜FCというチーム名は少しは知れ渡っているのかという自負があったが、開会式での衝撃のチーム紹介。参加チームが行進していく中、チーム名が読み上げられる。「釜石FC」「ドッヒャー!」「またやられたー!」今では、ほとんど間違われる事はないが、当時は釜石のラグビーチームが有名で、よく釜石と塩釜を間違えられていた。名前をしっかり覚えてもらうように、良い試合をしようと全員が奮起。準優勝という素晴らしい(?)結果。当時の小学生も今は三十代。吉野智行選手や山瀬功冶選手が当時スリーエスのメンバーだった。札幌の方々とは交流が続いており、吉野君には電話でのやり取りをしている。サッカーを通じての家族同士の交流は色々な地区の方々と続いているが、SSSとのつながりは特に濃い。帰りには、帰したくないと泣いて送ってくれたお母さんや、塩釜に遊びに来てくれたご家族などサッカーが取り持つ縁はこれからも続きそうだ。「塩釜FC」、もう釜石とは呼ばせない。

24 今は昔、サッカー好きのお米屋さんの少年K君がいた。

小学校と中学校時代、一生懸命サッカーに取り組み、まじめに練習に励んだが、仲々レギュラーになれなかった。K君の同期には加藤久や鈴木武一など高校時代に県下の各高校に進学してから活躍した優秀な選手が沢山いて、メンバーに入るのはちょっと厳しい年代だったかもしれない。しかし、K君はめげずに頑張り、高校三年でレギュラーの座をものにした。塩釜FCの社会人チームのキャプテンに就任した時も、補欠の辛さを知っているK君は、自分が補欠にまわっても他のメンバーを優先に試合に出すことを忘れなかった。試合に出られないとか、「メンバーに入れない」と言って辞める子供達が多くなってきている昨今、本当に見習ってもらいたい先輩の姿。まじめに取り組んでも結果はすぐには出てこないことが多々ある。でもその姿勢は誰かが認めて見ていることを今の子供達にも知ってもらいたいし、必ず、身に付き結果として表われることを信じて、腐らないで欲しい。家業を継いだK君、今は楽しみながらサッカーに関わっている。理解のある奥さんと、二人娘の応援を受けて、時々試合にも出場。怪我をしない様に頑張れ!。

25 今は昔、顔色の悪い中学生がいた。

両親は、ある少年団の親の会のお世話を熱心に行っていた。ところが、ある日突然、離婚をした。私達には図り知れない理由があったに違いないのだけれど、母親の不倫もその原因の一つだった。子供達は父親と母親それぞれに分かれて引き取られたが、父親についていった中学生がある日我が家をたずねて来た。当時お好み焼き店を営んでいた我が家には、いつも大勢の子供達が集まり、五十席程の店内はいつも活気にあふれていた。(ただ食いのお客様達)ある中学校のサッカー部に所属していたその中学生は我が家にあまり顔を出すことはあまりなかったが、よくよくの思いで訪れたにちがいない。空腹と栄養不足で、蚊の泣くような声で挨拶をするのがやっとだった。顔を見て、いろいろな事を察した私は、とにかく、好きなものを食べる事をすすめてみたが、遠慮とあまりの空腹で何を食べて良いか、どの位食べられるのか分からない状態だった。焼き肉、お好み焼きを少しずつ食べながら少しずつ家庭の事を話を始めた彼は、仕事やその他で不在がちな父親の事、ほとんど食事らしい食事をとっていない事などボソボソと語りつづけた。数ヶ月一日一回我が家で食事をしていた中学生の音信が不通になってもう二十年以上になる。心にぽっかり穴があいてしまったことが、感謝する気持ちが、どこかに飛んでしまったのだろう。今も、栄養が片寄っている子供達が多い。理由は様々だが、食生活に手抜きなお母さんに一言。楽しい食事で、会話がはずむ食事が子供の教育には一番。一生懸命手作りをしたおかずをおいしく食べることが、心の成長にもたらす影響は大きいよ。離婚したって、しっかりした優しい子は育てられる。ただし、食事をあなどるなかれ!

26 今は昔、鉄パイプの嵐が中学生の頭に降って来る出来事があった。

およそ三十五年前、当時はまだ東北にクラブチームの存在が無く、各少年団から上がった子供達は、地域の中学校のサッカー部に進んでいった。塩釜サッカー少年団の小学生は、塩釜一中サッカー部に所属し、中体連の優勝を目指して練習に励んでいた。ある日曜日、松島中学校と練習試合がありその日の練習を学校から任された小幡監督は、いつもの様に激を飛ばしながら、ゲームの指示をしていた。この日、試験のためレギュラーが四、五人不参加と言う事があり、補欠のメンバーがゲームに参加していた。コンビネーションが思う様にかみ合わないレギュラーが補欠数人に文句を言い始め、試合内容も散々。ゲーム終了後、監督は全員を一列に並べ、たまたま足下に落ちていた棒を拾い、全員の頭に「スコーン!」「スコーン!」よく見ると、木の棒ではなく、鉄パイプ。やめようと思っても時すでに遅しで、全員を殴り終わっていた。何で叩かれたのか納得いかないメンバー。「チームメイトに文句を言うより、他にやることがあるだろう。今の皆の実力で、考えながらお互いをカバーすることを考えろ!」言われた補欠メンバーは、嬉しかったのか、悔しかったのか、痛かったのか涙ぼろぼろ。今の時代に同じ様な事をやったら、新聞沙汰になるかもしれないが、口で言ってもわからない時には、鉄拳制裁も必要かもしれない。痛さを知って、人の痛みを知る事が内面だけでなく、外側からも絶対必要。叩かれる方は痛いのは当然。でも、叩くこの手と心はもっと痛い、いつも監督は言っている。「当時の親も偉い」

27 今は昔、塩釜FCは、その前身チームの時も含め、「雨に弱い塩釜」というレッテルがはられていた。

どんな試合でも、泥んこのグラウンドになると、得意のテクニックが発揮出来ず、いつも涙をのんでいた。以前のグラウンドは、どんな大会でも、決勝戦でも必ずクレー。雨天になると宮城県を代表する、宮城野原の県サッカー場は、田植え前の田んぼ状態と化する。数十年前の全日本少年サッカー大会県大会の決勝戦もどしゃぶりの試合。足技を使ってもボールは思う様に動かず、前に蹴っても、転がる事は無く、全国大会に行きたいと言う思いは田んぼの水溜りの泡と消えたのである。今は、少しずつではあるが、芝生の競技場が増えつつある。しかし、雨の日はやはり同じ。貸してくれないグラウンドがあるからだ。泥んこ状態での怪我防止や、環境の良いところでサッカーをさせたいという思いで、陳情し、やっと出来た利府の県サッカー場でさえ、思う様に借りられない時もある。水を含んだ状態の時に芝生を利用し、その後の補習作業に多額の費用がかかることも芝管理をしている私達には理解が出来る事だが、少ない費用で芝生の維持管理が出来る事も知って欲しい。何はともあれ、今の子供達は幸せである。大きな大会は必ず芝生。自分の持っている技術を思う存分披露できる。怪我が少ない。ちなみにジュニアユースの全国大会で東海代表を破った時が雨。その後の雨の試合も勝利の女神が微笑んだ。(会場は芝生使用)雨に弱い塩釜が返上できたかな?これも私の町の芝生のグラウンドのおかげ……。

28 今は昔、東京の有名私立小学校のサッカー部との交流の機会があり期待に胸を膨らませながら訪れた。

ホームステイのため数家族が受け入れをしてくれることになり、学校脇の路上に迎えの車が続々やってきた。しかしこれがびっくりするくらい全て高級車。それもほとんどが外車。ベンツ、BMW、そして名前も知らないすごい車が平然と並んでいる。子供達も、その様子を見ただけで目を白黒。サッカー以前の事で圧倒された上に、またまた驚く事が……。各家庭に分散し、宿泊した翌日、グラウンドに集まって来た子供達から出た言葉は「すげー、立派な家だぞー」「エレベーター降りたら、ドアだった」「レストランに食事をしに行ったら、「いつもの」って言うんだ。そしたらすげぇステーキだのが出てきて、びっくりした」田舎者とは言っても、東北では仙台という都会が隣りだし、マンションや高級住宅に住んでいる家庭もあるけれど、それの比ではない位、リッチな家に泊めて頂き、歓迎されとにかく地に足がついていない。私も少しは見栄をはろうと、清水の舞台から飛び降りたつもりでカードでコートを購入し、勇んで着て行ったが、校庭で待っていたお母さん達の装いは、数百万はするであろうという毛皮のコートが勢ぞろい。それ以来、遠征先への服装は軽装、そしてコートはグラウンドコート、とにかく楽に行こうと決めている。ところで、遠征に行って、試合の中味が頭に入っていないのはこれが初めて。誰がどんなプレーをしたのか、勝ったのか負けたのかも全然覚えていない。今は三十代になった子供達も、この話になると試合の事は全然出てこない。よほど衝撃的な出来事だったに違いない。

29 今は昔、一回も腕立てが出来ないけれど、サッカーが好きで、とても真面目な少年がいた

何事にも一生懸命だけれど、なかなか結果が付いて来ない日々が続いた。しかし一歩一歩、努力する姿勢は、少しずつ報われ、中学校になると試合でも活躍するようになってきた。そしてそれは学業にも表われ、成績もぐんぐん伸びて行き、高専に進んだ。高専に在学中、その少年N君は、我が家が経営をしていた「お好み焼き・ごーる」でアルバイトをしてもらった。五十席程の店内は、土日ともなると目がまわる様な忙しさで、その上、サッカーの試合で留守がちの主人の手でも借りたい程だった。N君もサッカーをしたい気持ちを押さえ、他のアルバイト諸君と一生懸命働いていたある日曜日の事。その日はサッカーが休みで主人も店に出ており、接客をしていたが、ささいな事で、アルバイト二人が主人から注意を受けていた。アルバイトは全員塩釜FCの卒業生ということもあり全員が息子的感覚で接している私達は、しかるときも本気、主人もいつもの様に真剣に話を聞かせていたが、その様子を無視していたN君にキレタ主人。「N君ここにいるのは仲間だろう、自分だけ知らないふりなんて最低だ。自分は悪くなくとも一緒にいてやる位の思いやりはないのか!いくら頭が良くても心の無いやつは最低だ」何も悪い事をしていないし、怒られるのは不自然と思いながらもN君、だまって主人の説教を聞き「すみません」。私もとばっちりがいったかなと思いながらも、N君に足りないのはそんな部分であり良い機会だったのかもしれないと口ぞえは何もせずただ見守っていた。あれから数年。今はコンピューター関係の仕事についており、結婚もして優しい奥さんと温かい家庭を築いている。塩釜FCにパソコンを寄付してくれ、帰省する度に、機械オンチ主人に使い方を説明し、ていねいに教えてくれる。ひとつの出来事が、考え方や生き方を変える事があるが、あの日の出来事がN君の心に一石を投じた事は間違いないと思う。一まわりもニまわりも大きく成長した卒業生に会えるときほど、嬉しい事はない。今も、昔と変わらず、監督の雷は降っているが、以前の雷より弱くなっているのは何故?

30 今は昔、練習中にグラウンドの隅に置いていた着替えなど入ったバックの中から現金が無くなる事件が続いた。

初めは、所持金の覚え違いだろうと簡単に考えていたが、あまりにも続きすぎるため、隠れての犯人探しとなった。しかし罪を追及するだけの犯人探しではなく、誰が何の目的でやってしまったのか、その癖を治すためにはどうしたらよいかなどの解決のためである。
ある日、低学年の塩釜FC所属の子が、一万円札を持って「何かおごってやる」と皆に言ってまわっていた。以前からマークをしていた子だが、誰からもらったのか尋ねても「僕のお金」と言ってきかない。
不思議に思った監督は、低学年を練習させておいて高学年を集め聞いてみると、練習中に他人の財布から悪びれずに堂々とお金を持ち出していた事実を聞かされ、あ然としてしまった。子供達同士で解決しようと監督やコーチにその事を黙っていたが、一万円という額の大きさに小学生ではどうしようもない事態になっていたと言う。
早速親に連絡をとり、お金の出所を確かめると、お母さんの財布から無断で持ち出したものとわかった。これまでの事をすべて両親に話し、治すための根強い戦いがはじまった。別に貧しい家庭の子でもなく、小遣いをあげていなかったわけではないが、何かの原因でお金を使いたくなる病気にかかってしまったのだ。
まず初めに教えたのは、他人にされて嫌なことは、他人にしないということである。ある練習の時、監督はその子のジャージを目の前で黙って持って帰ろうとした。すると「それ俺の……」「だって、お前だって他人のカバンから黙ってお金をもって帰っただろう。だったら俺だってお前のもって帰ってもあいこだろう……」そこから延々皆の話合いが続いた。
少しは自分のした事の罪が理解出来たこの子は、二度としない事を誓ったが、六年生がいつも注意しながらその子の行動を見守り続け、完治まではしばらく時間がかかった。(この事を除けば素直な良い子である)
子供達から盗った金額は一人から百円程度だったが、金額の大小にかかわらず、物事の善悪を教えることに、サッカー仲間を利用できたことはその子にとって、幸いだったのかもしれない。今でも、似たような出来事はたまに起きることがある。叱る事は当然だが、早いうちに原因を探り、治療してあげたいものだ。

31 今は昔、塩釜FCには影となり日向となって手伝ってくれる方々がいた。

近所の牛乳販売店のナベちゃん。サッカーとは何の関係も無く、ただ近所の住人で、我が家のお友達。三十五年前に喫茶店をしていた時からのお客さんで、毎日通って来てくれているうちに、サッカー中心の会話に入りこみ、ついには、手伝ってくれるようになっていた。何の手伝いだと思う?
大会が終った後のゴミ処理が、ナベちゃんのボランティア仕事。試合が終わると何処からともなく現れ、軽自動車にゴミをつめこみ、何処かへ去っていく。月光仮面のようなナベちゃん。学校のゴールポストが壊れると、だまって修理してくれる。自分の口からやったとは絶対言わない。
感謝!感謝!
大型免許をとって、遠征試合のマイクロバスの送迎時など、大活躍をしてくれる福原さん。息子の大助君が卒業してから、何か手伝いたいと塩釜FCのスタッフに入り、何かとお世話になっている。
これまた三十年以上の付き合いの牧場。牧場とはあだ名である。牧場を経営しているためについたわかりやすいニックネーム。芝生の管理で手が足りない時に、自分の牧場で使う大きな機械を運んできて手伝ってくれる。一時間以上かかる仕事が、機械を借りるとものの十分で終る。何とも心強い。
この他にも多くの方々にお世話になり塩釜FCは育ててもらっている。

32 今は昔、塩釜FCの前身、塩釜サッカー少年団に天才の誉れ高い少年がいた。

兄も県下では有名な選手で、我がクラブの黄金時代を築いていた。小、中、高とスムーズにサッカー人生を歩んでいくかと思われたが、高校生になってから、ギターに目覚め、部活に穴をあける様になった。しかし、それまで築いた基礎と持って生まれた天才肌のプレーは、ちょっと練習休んでも落ちる事はなく、更にユース代表候補に選ばれたりした事が、彼の行動に歯止めがかけられなくなっていた。
ユース代表候補の合宿の時にも、彼の個性的な言動や行動は、変わることなく、指導者も手をやいた事は言うまでもない。高校を卒業した彼は、サッカー中心の生活からのがれて、美術関係の学校へ進んだ。アメリカへも渡り、色々な人との出会いがあったが、帰国した時には人間が全く変わっていた。
髪の毛は背中まで長くなり、宇宙の研究に興味を持ち、ちょっと世間ずれした様子に、彼を知っている多くの人々は興味本位で彼の行動を見るようになっていた。数年が過ぎ、彼の事は、少しずつ忘れられて行くようになったが、私達は、相変わらずちょっと変わった彼とつきあっている。私達にとっては息子と同じなのである。
幼いころに社会性を身につけてあげられなかった私達の責任は大きく、彼を通じて学んだ事も沢山ある。他人を教えるってとても重く厳しい。しかし、楽しさもそれ以上である。子供達の言葉や行いに笑い、泣き、苦しみ、一緒に歩みつづける事が出来る嬉しさは私達の特権である。
サッカー、サッカーだけでは世間が狭くなるよ!よーく周りを見て羽ばたかなくちゃ!